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水野義夫プロフィール

水野義夫

(株)ネイルズユニークオブジャパン代表取締役

JNA理事・講師会会長・国際委員会委員長

 

高校・大学時代はラガーマンとして鳴らすが、膝の故障のためラグビーを挫折。

同志社大学卒業後、貿易会社に入社。サンフランシスコに駐在中、「マリネロ・ビューティカレッジ マニキュアリスト科」の夜間部に入学。日本人として初のカリフォルニア州マニキュアリスト・ライセンスを取得後、ロスアンジェルスの「ネイルズユニーク」でサロンワーク修行。「WINBA」世界大会では11年連続審査委員、1989年には審査委員長も務める。

1986年、神戸・北野にネイルサロン第1号店オープンを皮切りに、現在、全国に116店舗のサロン、7校のネイルスクールを展開。名実ともに日本一のネイルサロン経営者。

趣味は車(5台所有)、犬、最近は陶芸(備前焼)にも親しんでいる。座右の銘は「身を沈めてこそ浮かぶ瀬もあり、二歩進んで一歩後退」。

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ネイルズユニーク水野社長|日本一のネイルサロンに学ぶ⑤

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日本のネイルビジネスもアメリカ並みの巨大マーケットに

「日本のネイルビジネスはアメリカに10年遅れています。全米には37,000軒のサロンがあり、物販売上げを入れれば7,000億のマーケットになっています。今後、日本のネイルサロンも増えることがあっても減ることはありませんよ。」ネイルズユニーク社長の水野氏は語る。
その裏付けは、娘がネイルサロンに行けば、その母も行くようになる。娘が結婚したその子供(孫)も行く…次々と世代をつないでいけばお客さまは順繰りに増えていく。だからこそビックマーケットが予見できるという。
秋にはマニキュアメーカーとして特色ある海外メーカーとの提携で、東京・銀座地区にプロショップ『マニキュア専門販売コーナー』を出店予定。
「ポリッシュの全種全番号を揃えている店がないので、それを実現したい。限定マニキュアとか、ミニチュアセット、手にとって見てみたいじゃないですか」。
日本のネイル産業を牽引するオーナーとして、また新たな挑戦が始まっているようだ。

ネイルズユニークオブジャパンでは、これまでもサロンワークだけに特化せず、店販にも力を入れてきた。
ネイリストの技術の高さはもちろんだが、ネイルを活かすためのアフターケアに役立つ商品の販売も重要と。
信頼するネイリストが勧める商品であれば、お客さまとしても安心して購入できる。技術と接客はあって当り前、それを支える物販の売上げも、技術者の魅力のバロメータでもあることを見習うべきではないだろうか。

ネイルズユニーク水野社長|日本一のネイルサロンに学ぶ④

「日本のネイルサロンは発展途上。まだまだ伸びます」

116店舗のロケーション、その多くはデパートやショッピングセンターだが、ネイルビジネスの草創期に進出していくにはどんな極意があったのだろうか。

「出店交渉は堂々と、正面玄関から行った方がいいですね。それは実績を作るってことですが、名前も何もない時にどうしたかというと、短期のイベントを4回、5回とやってそれを実績にしていました」。

いまや、街やショッピングセンターを活性化するために、ネイルサロンはなくてはならない存在になってきた。

今後の展望を伺うと、「お客さまは確実に増えますから、サロンオーナーはいま、下地を作るいい時期ですよ。絶対に確信があります。お客さまを大切にしながら、一定の距離感を持って、世代のバトンタッチを継続的にしていくといいですね」と、ネイルズユニーク社長は語る。

お客さまも年々加齢していくから、旧来の顧客だけを大切にしていては、いつしか世代のギャップが生まれてしまう。そのためには、新しい(若い)顧客の確保でサロンの活性化を導く必要があるという。

ネイルズユニーク水野社長|日本一のネイルサロンに学ぶ③

ネイルズユニークロゴ

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父親との約束100店舗達成

100店舗達成は2005年春 客層別に3ブランドでサロン展開

1997年に9店舗、1998年からは毎年2桁台ペースで店舗数を拡げていった。東京への進出も1997年を皮切りに、1998年には博多、名古屋にもサロンをオープン。日本中に張り巡らされる支店網、目を瞠る躍進ぶりに誰もが驚愕するなか、2005年春、念願の100店舗を達成!

「父が生きている間に…の思いが叶い、見届けてもらうことができました」。
自社のホームページには来年の春までの開業、リニューアル予定がぎっしりと掲載されている。
「新規にオープンする一方で撤退する店もあります。そもそもの目標は100店舗でしたし、これ以上拡大したいという気持ちはないのです」。

ネイルズユニーク水野社長は確信をもって語る。
「ゴールは100店舗だった。一気に突っ走ってきたから、急には止まれない。今は助走で走っているだけと。」
現在、コンセプト別に3ブランド(ネイルズユニーク、ラ・ネイル、アルティミッド)を展開。
「お客さまは年代、趣味志向、収入によっても行くところが違うので、ターゲットにあわせてポリシーの振り分けをしているんですよ。メニューや価格、ネイリストのユニフォームもすべて違いますし、インテリアもグレードも変えています」。

700品目を超えるネイルグッズ

ちなみに

  • ネイルズユニーク』は、700品目を越えるネイルグッズを取り揃えるスタンダードなネイルサロン。
  • ラ・ネイル』は、オープン形式の気軽に行けるネイルサロンで、リーズナブルな値段設定。
  • アルティミッド』は、最先端のネイルサービスを提供するとともに、オリジナルマニキュア&ネイルアート用品も販売。

当然、ネイリストもブランドの個性を考えての配属。3ブランドにコンセプトをわけていても、「ネイルサロンは、女性のお客さまにリラックスしていただくための場所でありたい」が、ネイルズユニークオブジャパンの一貫したポリシーである。

ネイルズユニーク水野社長|日本一のネイルサロンに学ぶ②

父親の一言がきっかけに

2号店(岡本)の開業は1990年、3号店(神戸ハーバーランド)は1994年。

「そんな時期、父が大病を患いました。医者は長男の僕だけに余命を宣告したのです。ある日、父と食事をしていたら”おまえに100店舗は無理やな”って言われましてね」。

この一言が、ネイルズユニーク水野社長が店舗を急増するきっかけになった。

「激励の意味で言ってくれたことはわかっていましたし、父の強がりも知っているので、何とか生きている間に100店舗を実現して見せてあげたいと、無謀なことをしただけですよ。ふり返ってみたら”やってしまった!”」(笑)

“自分としては5店舗でも、10店舗でもよかった。ネイリストとして十分幸せに思っていた”とふり返る水野社長だが”息子にとって父親の存在は大きい、師匠でもあり、永遠のライバル”ー自らに課した大任は、負けじ魂とともに、父親への一途な思いだったに違いない。

思わぬ試練を乗り越えて

決意をした矢先、あの阪神淡路大震災(1995年1月)の勃発!

すべてのサロンが全壊。足の踏み場もない床は、割れたポリッシュで真っ赤に染まった…。

「京阪神の人すべてが大変だったので、ウチだけがとは思いませんでしたが、水道や電気といったライフラインも途絶えている状況、お客さまが戻ってくれるだろうかという心配はありました」。

しかし、立ち直りを支えてくれたは他ならぬお客さまたち。ミネラルウォーターや食糧をもって駆けつけてくれたという。

「街も復旧してない状況でしたが、震災の1ヶ月後にサロンを再開しました。」